六道遊行

六道遊行 (集英社文庫)

六道遊行 (集英社文庫)

名古屋三重旅行に行った時、N君からもらった本です。
amazonからレビューを転載しますと

内容(「BOOK」データベースより)春日の森、大杉の精・白鹿の導きによって、奈良の世と、はるか千二百年後の世を行き来する運命を負った盗賊の頭・上総の小楯。密かに心寄せる「姫のみかど」をめぐる権力の亡者どもに鉄槌を下し、末の世では、「我が子」を取り巻く物欲の亡者どもに霊力を振るう。SF的想像力を駆使して、反俗精神と、人間の本性としての「まことの恋」を謳い上げる長編小説。

だそうです。
木曜日に師団長さんと会って「批評は自分を出すんじゃなくて面白いと思っているやつがなぜ面白いと思うのかを考えろ(意訳)」と言われてしまったので、なるべくN君の気持ちになって考えてみることにします。そうすると面白さがわかるかもしれません。

まあとりあえず自分の感想(批評ではない):面白くなかった。つまらなかった。どこが面白いのかわからなかった。書いている本人が心から好き勝手に楽しんで書いた新聞の連載小説っぽいと思った。話が進むうちにいつのまにかみかどに恋していることになっているし、よくわからない。最初はどうでもよかったはずではないか。結局展開の起伏もとぼしく、「諸行無常である」といいたかっただけではないだろうか。

ではN君を乗り移らせつつ批評:これはエンターテイメントではない。これを読んで面白い面白くないを言うのは間違っている。これはエンターテイメントではなく小説なのだ。小説は面白い必要はない。作者の魂をけずって作った小説が必ずしも面白いわけはないだろう。この作品を作者は、読者を楽しませるために書いているのではない。自分の中にある何かを文字に写しているのである。たとえば、この小説の主人公は、行動に一貫性がない。感じたまま思ったまま行動している。しかし、情にしたがって動いているともいえない。ではどのようにして動いているのか、作者の意のままに動いているのである。この作者は普段はリアルな話を書いているのだろう。そのときは作者の中に存在する世界の中で主人公が人間らしく勝手に動き回っていると想像できる。しかし、この作品の場合「タイムトラベル」「霊」という現実には存在しないものを持ってきたせいで、作者の「タイムトラベル」の配置の仕方でいくらでも主人公の行動を制限できるのである。つまり、作者が物語を作ろうとした結果、主人公たちの行動に不自然さが入ってしまっているのである。なにも制限せずに舞台だけ作らせればこの作者がかなりの腕前だということは感じられた。が、この作品においてはそれが逆に作用している。人間社会のありのままを書けてしまうために、ありのままではないものが入ったときのアレンジをいれるのを忘れているのである。作者のなかでの「ありのまま」と読者の思う「ありのまま」がファンタジーであるがゆえに乖離してしまっているのだ。小説の中での主人公の行動が作者に操られているように見えてしまうのである。主人公の行動に人格を感じられれば展開の起伏が乏しいことはむしろさらなるリアリティを与えるが、主人公に人格を感じられないので、展開の起伏が乏しいのは致命的になっている。
もうひとつ、この作品は長編として一気に読む類ではないということがあげられる。
もともと、小説雑誌の連載として発表されたので、時期をおいて小出しに物語が進んでいく形になっていた。読者は現実の年月が進みながら物語の年月が進んでいくおかげで、主人公の歳の重ねによる変化を受け入れることができる。しかし、長編として読んでしまうと、段落ひとつで数年経ったりワープしているあいだに数ヶ月経ち経つたびに奈良の現況説明にうんざりしていまう。連載のときは、現実で月刊なので読む本人も一月過ごしている。なので、物語内で数ヶ月過ぎても違和感はない。この小説は形式としては
奈良、数ヶ月経過、現代、数ヶ月経過、奈良、数ヶ月経過、奈良、数ヶ月経過、奈良
という形をとることで、奈良と現代の時代の流れ人の変遷を書いている。長編で読んでしまうと実感として落ちる前に進んでしまい、せわしない印象を受けてしまう。たとえて言うならば現実と同じペースで漫画世界の時間が流れている漫画をコミックスで一気読みしたときの感覚だろうか(あっという間に四季がめぐったり)。
つまり、作者は月刊誌での連載という特性を用いてこの作品を書いている。そのためにこの作品の本当の面白さを理解するには、当時と同じペースで読まなければならない。読者が人生の経験をつんでいくなかで、物語の人間も(少しペースは早いが)歳をとっていく。
この作者は、読者と小説をエンタングルさせたかったのではないか。